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日本国憲法への〈日本人〉の関与 2−1
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   早くも今朝、椿 紅妙蓮寺が咲いていました。


前に一度同じテーマで書いたことがありますが、
このテーマを〈日本人〉としたのは、ベアテ・シロタ・ゴードンさん(Beate Sirota Gordon 1923~2012)のことが頭にあったからなのですが、続けて書こうと当初は思いつつ、他に急を要する(というと大袈裟に聞こえますが)ことがいろいろあり、なかなか書けませんでした。
そのうちボツにしてもいいかなぁと思ったりするうち、もうひとつ日本人の関与を見つけ、ベアテさんのことはいよいよボツにしようと思い、一応念のためもう一度ベアテさんのことを検索すると、彼女へのロングインタビューが載っていて、それがおもしろかったのでやはり書くことにしました。

ベアテさんについては日本でも有名で、映画(「ベアテの贈り物」)になっているぐらいなのでご存知の方も多いのではないかと思います。
ここでは自分自身の確認の意味も含めて残しておきたいと思います。


   ******************************


ウィーンで生まれ、両親は共にユダヤ人で、父親はピアニストのレオ・シロタです。

父親の仕事の都合で家族で来日したのはベアテが5歳半のときでした。
時に世界恐慌の起こった1929年のことでした。翌1930年、ヨーロッパではユダヤ人を排斥するナチ党が総選挙で第二党となったため、シロタ家は日本滞在を続けることにしました。

シロタ家にはたくさんの名だたる人物が訪れ、日常的にドイツ語、日本語、英語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で暮らし、ベアテは15歳までにそれらの原語をマスターしていたのでした。

小柴美代という人が女中として同居していましたが、ベアテは彼女から日本人女性がいかに男性から劣ってみられているか、平等ではないかを聞いていました。
たとえば結婚は直前まで相手のことを知らされないことや、男性と一緒に歩く時は一歩下がって歩くなどです。
美代さんは当時18歳という若さながら既婚で2児の母でもありました.たいへんに頭が良かったということです。
10年近くを日本で過ごし16歳でアメリカに渡るのですが、後に「自分が半分以上日本人」であることを自覚するようになります。

1941年東京音楽学校の教師であった父レオは生徒のために日本に戻らなければいかず、母とともに日本に戻りました。
そして、太平洋戦争が開戦しアメリカに残ったベアテと両親は戦争終結までの期間、連絡が途絶えることとなりました。

その後ベアテは語学の堪能であることや独自の才覚でアルバイトをし、米国連邦通信委員会という合衆国政府の管轄下でのバイトやタイム誌のリサーチャーのバイトをすることになりました。

やがて日本における両親の安否が確認できた後日本に帰国できる職を探し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間人要員(リサーチャー・調査専門官)として採用されて、空路で日本に帰国しました。
そこでGHQ民政局に赴任したベアテは日本国憲法草案作成の任務に就くのでありました。

                            つづく

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by sakillus | 2013-10-16 23:47 | 世界、社会 | Comments(0)
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