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ROSASOLIS

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視線


きのうはまるで初春の頃に戻ったかのような肌寒い雨降り。
薔薇の開花を目前にはやる気持ちもこの寒さにやや落ち着く。
こんな日には少し庭づくりについて省みてもいいかもしれないとおもうことがある。
というよりケリをつけなければとおもっていたことがあった。

きっとこころの中では不満におもっていたことが多々あった(今でも)とおもうのだが、遠慮もあってかそれを口に出すことのなかった庭師さんだが、彼もついに業を煮やしたか、それぐらいは言っておかねばとおもったか、淡々とした中にもえぐるようなことを話し始めた。それは少し前のことだったが。

彼の庭づくりにおける持論は、最初に土地をよく観ること。
そうすれば、やるべきこと、やっていいこと、やってはいけないことがあると。
それを踏まえれば、自分のやることの七割方はその時点ですでに決まっていると言う。

そんな彼がわが庭について気に入らなかったことは主に3つ。

ひとつめは単純なこととも言えることで、これは私の心掛け次第で改善されることなので割愛する。もっともその中には、たとえば「雑草をもっときれいに抜けば」というようなことがらがあるのだが、わたしはそれをきれいに抜くつもりはないし、実際、現実的には不可能なこととも思えるので、あまり期待はできないかもしれない。まぁ、これでもがんばってむしっているし、もう少しは努力するが・・・もう少しだけなら・・・

ふたつめ、これは今となってはほとんどどうしようもないことだが、うちの庭で多くの面積を割いている石組みで囲まれている築山風のところ。レイズドベッドと言ってもいいが。
その石組みはその道のプロにやってもらったものではないので十分な満足の得られるものでなないのはいたしかたのないことである。
彼のいわんとすることは、石組みの技術や見た目のこともあるが、しなければならないことからはずれてしまっているということであるとおもう。

既存の樹木がある。とすると、それをまず基準に自然な景観、高低差をつけながら土地(土台)を均すことがとても大事なことなのだという。
無用なへこみがあれば、そこに水がたまるなどして水はけが悪くなり、植物に悪影響を与えかねない。
石組みを組んだのはわたしではないが、高低差をつけ、土台を固めた(固めてないといった方が適切かもしれないが)のはわたしである。その高低差のつけ方もなりゆきでなんとなくである。
石組みがあれよあれよという間につくられ、強いイメージを持っていたわけではないのだが、私の気持ちにうまれた少しの違和感。しかしそれを直すことはわたしの力ではいかんともしがたいものだった。

「僕ならこうはしない。」という庭師さんのおおまかなプランを今聞くにつけ、その時彼にやってもらうことができたらどんなにおもしろかっただろうかとおもう。今からでもそれができればどんなにいいかとは思うのだが、現実的にはいろいろな意味でかなり難しいことだとおもう。
この、今ある植物たちを見るにつけても・・・

しかし、ここで嘆いてばかりもいられない。またその必要もない、かもしれない。
「こうだったらいいのに」と今ある現実との間にそれ相当のギャップがあるとする。
それをどうするか、もしくはしないか。その差を埋めていく作業をすることはゆっくりながらできるかもしれない。が、わたしはその空隙を埋めるということをしたくはないのである。
それはおおげさなようだが、あたかも自分の人生そのものかもしれなかった。
やるべきことは目の前にあることを誠実にこなすこと。「こなす」という言葉はべつに消極的な言葉ではない。

そしてまた、わたしは選択ということにあまり重きをおいていないのかもしれない。もちろん、これぞとおもう塩とそうでない塩があるとすれば可能な限り前者を選ぶのはいつものことだが、そういったことではなく、選択肢は無限にあるものではないし、選択をゆるされない場合もある。
わたしにとって大事なことは選択そのものではなく、目の前の現実にどう対処するか、の方なのである。
わたしは、人生と同じように、もし自分にふさわしく身の丈に合っていることであれば、何かしらは私の前におとずれるとどこかで信じている。しかし、この「おとずれる」ということもまた、安穏としていてはおとずれないのである。

さて、三つめは・・・土地を買った時に梅の古木を切ってもらったことである。
当初ここの土地にはかつての主が樹木をたくさん植えていた。それがかなり立派に育っており,薔薇を育てるには日陰をつくりふさわしいものとはいえなかった。また、常緑のものも結構あって私の趣味にも合わなかった。
その中にあった梅の木。それは4,50年は経っていたのであろうか。
幹にはうろ(空洞)もできていて、なおかつアリの大群もおしよせていた。
コブシの木に近かったこともあって、やはりできるであろう日陰のことをおもうと切ることを望んだ。
あとで近所の方からそれは豊後(ぶんご)梅でいい梅が成ったのだということを聞かされた。少し胸が痛んだ。友人からも切らなければ良かったのにと言われていた。ますます胸が痛んだ。
だからあらためて言われた時には胸から血がにじむようだった。
彼が一番残念だったこと、不満だったことはとりもなおさずこのことだったということも含めて。
梅の良さはそれからだったのに、とも言われた。
それはわたしが梅の良さをわかっていなかったということでもある。
いや、梅の古木の良さをわかっていなかったわけではなかった。
日陰をつくることに気をとられそれが目に入らなくなってしまっていたのだろう。
しかし、切ってしまったものはもうどうしようもなかった。

奇しくも2年程前に買っていた豊後梅があり、それはまだ幼い木といっていいものだがそれを植えた。
私のいのちがついえる頃、その梅は古木としての風格を備えているだろうか。
そうあって欲しいとおもう。

胸に痛いこと、耳に痛いことも多々あるわけだが、もちろん、わたしはこのようにいろいろ考え、前にすすませてくれた庭師さんにはたいへん感謝している。
そして、興味深い木やわたしには考えつかない草花などを取り寄せてくれることに対しても
感謝の念が絶えない。
ありがとう。


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北側から南にかけてのぞむ
ノムラモミジ、ヤマボウシ(入手して7年あまり、やっと今年はたくさん花が咲いてくれそう)
サワフタギ、それからアーチ方向へと。
わたしはこの視線から見える風景が案外好きだ。
単純な風景をつくりたいとはおもわない。
複雑にいろいろ絡み合う景色をつくりたいとおもう。
もちろん、わたしのすること、できることなどたかがしれてる。
ほとんどは植物たち自らと自然環境がつくりだすのである。



視線_f0160480_0515861.jpg


家の東側部分にあたるのだが、一枚目とは逆方向から見た図。
実際にはこれほど端正ではない。
見えないところで、資材が山になっていたり、挿し木苗などがひしめいていたり・・・


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その築山風の一部分である。
左支柱にはアリスター・ステラ・グレイ
右支柱にはファンタン・ラトゥール
いずれも蕾たくさん!
立葵がどんどん大きく育つ。これ以上育ったらどうしよう。なやむ。
ワイルドベルガモットはいよいよワイルドに。

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手前にある宿根アマ(リナム)


視線_f0160480_112355.jpg

出てこないかとおもっていたヒメサユリは出てきていた!よかった。
こんなに早く咲くなんて。ヒメというだけあって背丈は低い。

新潟、福島、山形県の県境を中心とした豪雪地帯の山地、丘陵地と宮城県のごく
限られた地域にのみ分布するという。

自生地におけるユリの減少に危機感を抱いた地元の人たちが栽培に取り組み、試行錯誤の末、実生からの栽培技術を確立したという。
今では流通しているヒメサユリの球根は、すべてタネから育てられたものらしい
タネから開花まで最低4年。
そんな大切なものと知り、購入したもうひとつの球根からも芽が出てくれることを願う。
by sakillus | 2008-05-11 00:49 | 庭づくり | Comments(26)
Commented by MiscellaneousOGRs at 2008-05-11 16:33
「四つのお願い」ならぬ...三つの事柄ですね?
如何な週末をお過ごしですか?

いちばん最後の縦のお写真。
左右の薔薇の間によっこらしょ!とタチアオイ。
この薔薇の枝はお互いに重なり合って絡みあい...
バランスを保っているように思います。
断ちきるようにタチアオイが伸びて伸びてもいいんじゃないですか?

サワフタギの素敵な枝振りも旧teacupで拝見しました。
かつて盆栽仕立ての実を見た事があったように思います。
大きな枝ぶりを拝見したのは今回が初めての事。
いいですね...。
僕もいつの日か植えてみたい樹のひとつとして
胸にとどめておくことにします。

思えば僕の祖母の家に薔薇を沢山移植した時、
叔父がその場所に薔薇を植えるなら、
そばにある梅の古木を切り倒すといって
あれよあれよ...という間にチェンソーで切ってしまった事を思い出します。
僕はどうしてよいか分からず...ただ呆然としてその場に立ちつくすのみ。
叔父曰く、その梅は食べられないのだ...と云っていました。

G d D
Commented at 2008-05-11 16:50
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sakillus at 2008-05-11 22:56
G d Dさん、こんばんは!

「四つのお願い」、ちあきなおみですね。(笑)
わたしはもちろんリアルタイムで聴きましたが、G d Dさんはどうなのでしょう?
今日は本当に寒かったです!
一度しまったストーブをまた出してしまいましたよ!今もかなり厚着・・・

タチアオイ、おかしいですよね。これは生長がすごいということはわかっているのですが、ついつい植える時に気をゆるしてしまって・・・言われるようにこのまま伸ばすっていうのが自然なのでしょうね。(笑)
隣の二つのバラ、たしかに近づいていってますね。取り合わせによっては敬遠するものもあるような気がしますが。

サワフタギ、そう言えば盆栽に使われると言っていたような気がします。
この木味わいがありますよ〜!直立生でスッと枝も伸びるのがおりこうさんな木だとすると、
これはやんちゃというかやや反骨精神を持っているというのかな・・・ラフな感じがあって。
そうはいっても、植物は植物なのでまわりのものから浮き出ることもなく馴染みもいいです。
景色に変化を生んで高さもほどよくおもしろい木だとおもいますね。おすすめです!



Commented by sakillus at 2008-05-11 22:56
G d Dさん、つづきです。

伯父さまのなさったこと、それはG d Dさんへの愛情を感じますね。きっと植えられた薔薇たちも大切にされていることでしょう。沢山?そうなんですか。(笑)
>その梅は食べられない  
ふふ、そういう現実的な判断、わかるような気がします。
Commented by sakillus at 2008-05-11 23:10
鍵コメさん、こんばんは。

わたしは鍵コメントをいただくのが初めてなのでドキドキしてしまいました。
おかしなことにわたしは画面に見えて当然なのに、あら!これ、みなさんに見えてないのかしら?
なんて焦ってログアウトしてたしかめてみたり・・・

第一の件に関してはわたし自身がまだよく把握していないので良く分からないんです。(苦笑)
それはともかく、自分自身の性分として、ときどき立ち止まって考えなければいけないと思う質なのでしょうね。そういう時に言葉はありがたいものだとおもいます。

次の件、とてもたのしみにしております!漏れ伺ったことの中でおもいあたるふしが・・・
きっとこころをこめたものになるのでしょうね!
優しいお言葉、心遣い、たいへんありがたくおもいます。
Commented by m at 2008-05-12 00:10 x
はじめましてmともうします。

庭というものや植物というものなどに、さまざまなおもいをもたれているようで興味深く拝見させていただきました。
土地と人とのかかわりかた。
庭というものは人のテリトリーともいえますが、やはり当然でしょうが大地そのものでもある。
人と神が出会う場であり、人が神を迎える場でしょうか。

見えるものの記憶と見えぬものの言葉が散りばめられたところ。
いつか、薔薇が地によこたわりいくつか花を咲かせて、神の言葉でかたられる物語りがあるのでしょう。

ふと、棺にそえられた花々を想いました。

失礼なことを書いたかもしれません。
ご気分わるくなされぬよう。


Commented by sakillus at 2008-05-12 09:31
mさん、はじめまして。ようこそ!

見てくださってうれしいです。どうもありがとうございます。
わたしは以前庭師さんと「何故庭をつくるのか?」という話をしたことがあります。
彼は答えを持っていましたが、私はすぐには答えられませんでした。
その後考えをめぐらせてみると、ひどく単純なことが理由となっていることに気づきました。
愉しみ、よろこび、おどろき。そして、ものの発生や消滅を感じることが好きなこと。
まるで幼子がいままで経験したことのない世界にふれて感じることのように。
そんな素朴なことですが、植物には単純にそれらを喚起させる力があるとおもいます。

わたしはそれなりの広さの庭をもっており、それは世界の現状からみればかなり恵まれていることだと思いますが、幸い持てたことに対して、その土地、大地に対する責任はやはりあると感じます。
それはなかなか難しいことだと思いますが、植物との関わりのなかでわたしが学ぶことで、ささやかなことでもなにか還元できるものがあればいいなぁともおもいます。

Commented by sakillus at 2008-05-12 09:31
mさん、つづきです。
右上の写真は山シャクヤクの2輪め(赤ではなく白だったという!)のものです。
開花二日めの。昼少し前の。
わずかの間の開花ですが、その凝縮したなかにとてつもない神々しさがありました。
ご存じかとはおもいますが。
つまるところ庭自体は過剰なものかもしれませんが、(よそから沢山植物を集めて来るという意味では。)そんなありえないおどろきと出会える場なのですね。

そしてまた>見えるものの記憶と見えぬものの言葉

庭をつくる上でたしかになんらかの記憶が作用しているのでしょうね。無意識ななかにも。
ふれたものへの心地よさにも似た。
そして主のひととなりが言葉となりあらわれる。ひとが現在進行形であると同様に庭も現在進行形なのはおもしろい呼応ですね。

>棺にそえられた花々
好きな花はもちろん薔薇だけではありませんが、薔薇の季節に死ぬのもいいですね。
そうすれば、棺にいれてもらえますね。埋めてもらえたら幸せです。きっと

mさんの言葉はもちろん心地よく響きましたとも。
Commented by sakillus at 2008-05-12 13:58
mさん、もう一つ、大事なことを忘れていました。
草木たちの言葉。
われわれはそのかそけき言葉をどれだけ聞くことができるでしょうかね?
いまといつかのことばを。
Commented by ぴぴん at 2008-05-12 23:41 x
mさんに応えて書かれた、sakiさんの「何故庭をつくるのか?」。
>ものの発生や消滅を感じる
>植物には単純にそれらを喚起させる力がある
という指摘が、何だかしみじみ身に沁みました。

しかし、素早くコメント欄を広げましたね。わたしは手つかずのままです。
やはりexciteブログを後から始められたsakiさんに、教わる側にわたしは回りましたね...
Commented by sakae at 2008-05-13 00:06 x
すごいなぁ
これ以上のコメントが出ない。
Commented by m at 2008-05-13 00:54 x
気分をわるくされなかったようで、よかったです。
記憶とことば。
どのようにしてそのような言葉が私からでてきたのか確かには思い出せませんが、生と死にまつわるイメージとしてあったような気がします。
土は生命の記憶であるというような。

ことばは裂け目からもれてくるもので、虚空に漂い振動するもの。

ヤマシャクヤクよいですよね。
花びらは地に落ちようともその花は光にきえてゆく

まるで光そのもの

なぜ庭を?
なるほど、そうですか。
それはきっと生きることと同じことですね。

草木たちの言葉。
薔薇の香りのうちに、木々の葉の下に、日々聴いていることでしょう。
神の言葉を。

よい庭をもたれているようでしあわせですね。 m
Commented by sakillus at 2008-05-13 01:03
ぴぴんさん、こんばんは。

生きとし生けるものはみな日々刻々と姿を変え、細胞レベルでは刻々と生まれ死んでいっているものですが、植物はその変化が如実に出ますね。声に出さずとも雄弁に物語っているものがあります。そのすべての姿にわたしたちは感動しますね。
時に残酷なものであると感じられる生や死。わたしたちは普通にその中に籍をおいていますね。

ぴぴんさん、この間たいへんなことに遭われたのですね。
ぴぴんさんは身をけずるようなことを書きつづりながら確認しながら前へ進もうとなさる。
その姿は私の胸にも刻印を残しています。

コメント欄の拡張はわたしひとりでは決してできないことでした。
熟練者の助けがあってのことです。
わたしのpcでexciteのコメント欄はなぜかスクロールがでないので困っていました。
もし必要であればメールにてお教えしますが。エヘン。(笑)


Commented by sakillus at 2008-05-13 01:16
sakaeさん、こんばんは。

人間は考える葦だそうですから(笑)
「アッシにはかかわりのないこって」って言わないで下さいね(笑)
  ↑ これ誰のセリフかわかります?
木枯らし紋次郎です。
Commented by クミン at 2008-05-13 08:45 x
sakiさん、おはようございます。
かの庭師さんはなかなか素敵な方のようですね!
でも私はその方にお庭を頼まれなくてよかったかもしれないとも思います。
初めからバッチリとなってないほうがsakiさんらしいような気がするからです。
家を作るとき、木の実を壁に塗りこむと聞いたとき、正直やめたほうがいいかもと思いましたもん(笑)。
でも、結果は大成功でしたね。
sakiさんはプロがしないような事をされて、それをちゃんと形にできる力をお持ちと思います。
私は、数年後にsakiさんに庭を見たその庭師さんが『やられた~』って思ってくれると信じています。
Commented by クミン at 2008-05-13 08:45 x
 つづき
庭師さんと言えば、今うちにもジャムおじさんが来てくれていますよ。
(おじさんの写真、撮っておきますね!)
やはり今回も、庭を見て『またバラが増えましたね』と言いました(笑)。
昨日はギャラリーが休みだったので、赤松の剪定のしかたをならって、手の届くところまでしだれた枝は私にやらせてもらいました。
鋏も少し使うけど、ほとんど手でやるんですよ。
先代のお父さんが京都で教えてもらったというやり方で、他の庭師さんに頼むとそんな風に出来ないのです。
私は知っておくのも『保険』になるかな~と思って・・・。

それから~
>ちあきなおみ
>木枯らし紋次郎
とくれば、続くのは・・・『ピンカラ兄弟』でしょうか(笑)?
Commented by sakillus at 2008-05-13 08:59
mさん、おはようございます。

記憶とことば、mさんのおっしゃることはおぼろげながら感じられるような気がします。
記憶は私たちがこの世に生を受ける前からもっているもの。
ことばはことばというものが生まれる前から存在していたもの。ひびきとしてあったもの。

そして、土に還るという言い方があるように、存在がなくなっても「記憶やことば」は誰かの、なにかのこころの中には残っているもの。
そのように感じます。

ヤマシャクヤク、シラネアオイなどを見て驚いたのは、開花時のすばらしはもちろんのこと、
花は咲いている時だけが花なのではないと感じられたことです。
咲いているときの、あたりを変えた存在感が散ったあとも余韻といいましょうか、
脳裏には深くとどまり、散ったあとの行方を想わせました。
そういったことは薔薇でもありましたが、もっと強いものでした。
それはこの地に自生する山野草の中には初源のエネルギーのようなもの、(想像ですが)mさんのおっしゃる神を感じさせてくれるものが強くあるということですね。

Commented by sakillus at 2008-05-13 09:00
mさんつづきです。

お陰様でよい場をもたせてもらっています。
でも、まだまだこれからです。わたしはデザイン力がないので・・(笑)頼りにしているひとがいます。
庭は永遠に未完であるということは喜ばしいことです。
そこに希望があるということでもあり、それは小さな一鉢の中にも言えることなのでしょう。
Commented by sakillus at 2008-05-13 09:36
クミンさん、おはようございます。お久しぶりと言っていいのかどうか....

庭師さんにはクミンさんがそのようにおっしゃっていたと伝えておきましょうか。(笑)
でも、あまりおだてると木に登ってしまいそうですよ。
それでなくても木に登っているひとですが。(笑)

>初めからバッチリとなってないほうがsakiさんらしいような気がする
あぁ、そうですね!そのことを思い出させてくれてどうもありがとうございます!
きっと簡単にはいかないぞと。少しぐらい苦労したり、あれこれ考えなければだめだぞという・・
これからの道のりも長いわけですから、ゆっくりとやっていきたいですね♪

>プロがしないような事を
ははは、これもすでに敷石のときに言われました。いいかげんであるとも、まぁいいように解釈すれば味があるとも・・・
クミンさんからはまた課題が出されたような気がします。
でも、ホントそうですね。わたしもがんばらないと!

Commented by sakillus at 2008-05-13 09:36
クミンさん、続きです。

ジャムおじさんのクミンさんちの庭師さん。きっと暖かいものを持っていらっしゃる方と想像します。
赤松の剪定、わたしもすこしだけ聞いたことがあります。プロのやり方を教えていただくことっておもしろいですね!見ているのも好きです。
バラに関しては、そろそろ数をストップしませんかと言われました!(苦笑)

『ピンカラ兄弟』!(爆笑)あぁ、でてしまいましたねぇ・・・
昭和40年代を代表するトリオですか?
そういえばうちのあたりにくる「みかん屋」はピンカラ兄弟をBGMに使っています。
Commented by ぴぴん at 2008-05-13 12:17 x
>身をけずるようなことを書きつづりながら
えっ、そうなんですね。そうとは気づきませんでした。
身を削るというと、『つるのおんがえし』を連想します。
はかなくなって、西の空に飛んで行かないように、気をつけないと。

>コメント欄の拡張
やはり熟練者からの直接伝達でしたか。
業というのは、そうやって広まるものですね。
今はその作業をする余力がありませんが、いずれもし、手を入れる気になったら、
お言葉に甘えて、メールさせていただきます。
仰っていただいて、ありがとうございました。

>ちあきなおみ
>木枯らし紋次郎
>ぴんから兄弟
と来れば、次は「殿さまキングス」。

わたしはぴんからの「おんなの道」と、とのさまの「女の操」、
どっちがどっちを歌っているのか、すぐ分からなくなります。
Commented by sakillus at 2008-05-13 16:40
あら、ぴぴんさん、ご自身では感じませんでしたか。
習慣になっていらっしゃるのでしょうけれど。
鉄は熱いうちにうてという言葉もありますが、体調と相談しながら休み休みやってくださいませ。

コメント欄の拡張はいずれもし、の時に、いつでもどうぞ〜!

「殿さまキングス」ありゃぁ(笑)いましたねぇ・・・

>ぴんからの「おんなの道」と、とのさまの「女の操」、
どっちがどっちを歌っているのか、すぐ分からなくなります

わたしも分からないですよ(笑)おんなという字、ひらがなと漢字とあるんですか。
ちょびひげの丸っこいおやじがぴんからでしたっけ?
どっちの方々も胡散臭さでは似たり寄ったり。
いかにも昭和的ですね。
Commented by ぴぴん at 2008-05-13 20:39 x
「女のみち」と「なみだの操」でした。orz...
ひげがぴんから、
若い頃の歌う顔の口元が、香取慎吾や相島一之を連想させるのが、殿様です。

こんな話でひっぱってすみません。<(_ _ )>
Commented by sakillus at 2008-05-13 23:30
ぴぴんさん、調べました?調べました?(2回聞いてる)

わたしも殿さまキングス、Wikipediaで調べてしまいましたよ。
不本意ながら笑いのつぼにはまってしまいました。

あの、似た年代で「さくらと一郎」というたいへん貧相な二人組がいましたね。
わたし、「昭和枯れすすき」一年に一度ぐらいうたうことがあります。
むずかしいんですよ。

こんな展開になるとは・・・ぜんぜんおもってもみませんでした。。。
Commented at 2011-11-15 10:55
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sakillus at 2011-11-16 08:23
鍵コメさん、おはようございます。

こちらに来られましたか!
今ある梅の木は枝垂れ梅なのですが、この記事で問題となっている豊後梅はすでにないのです。一部で鉢のようなものとして使っています。
庭の主ですか・・・どなたでしょうね?
夕暮れ時にたたずむと、やはり年数の経っているコブシや枝垂梅のあたりに強い気を感じます。
この庭と言わずおよそどこの庭でもそうかもしれませんが、植物の生態は人間の意思と同じぐらいかもっと強いですね。
どこに種がこぼれるかなんてことはこちらで決定できることではありませんよね。
図々しいなんてことありませんよ。どうぞお気遣いなく。^^。
それに、特に、日、月曜日はお店の日なので、全然かまわないのです。
こちらこそ来ていただけて感謝しています。
これからまだ直しがあるのでゆっくりでもおつきあいいただければ幸いです。
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